パブリックコメント(4)

 届いたコメントを新しい順に掲載します。



なかむら ともえ
高等学校就学支援金の支給について朝鮮学校補助金について再開して頂くコメントをさせて頂きました。
民主党政府の時から朝鮮学校補助金には検討がされていましたが、それが中途のまま政権が交代してしまい、先般12月28日に新政権において文科省は高校授業料無償化の朝鮮学校への適用については「適用しない」と発表されました。
その理由について、「北朝鮮による拉致問題の進展がない事」、「国民の理解が得られない」とのご判断がありました。
私も補助金再開には賛成で少なからず支援させて頂いておりますが、在日朝鮮人の方から見聞きして知る限りでは、教育に至っては、日本の文化、朝鮮の民族文化、また英語教育など多岐にわたっており、きちんと日本の学校で教える教育と同じ事を教えています。
また大阪ではキムジョンイル首席の写真を学校の部屋から下ろしたら検討するという話しでしたが、写真をすでにおろしているのにもかかわらず検討についての進展がないようです。
いくら朝鮮学校朝鮮総連と関係があるといっても、在日朝鮮人の子供達は日本で生まれ育っています。北朝鮮の右よりの教育というより、日本で生きて聞くために必要な民主的な教育を受けているといえると思うので、「拉致問題」とは直接関わりがないと思います。朝鮮総連との関わりは親戚に会うためや学校の修学旅行で北朝鮮渡航するための手続き上のため、(日本の在外領事館と同じ役割)また、朝鮮民族教育、文化教育について日本では知り得ない事をサポートするため、と考えられ、キムジョンイル思想を教えるものではないと考えます。
記者会見で「民族差別ではない」とのコメントがありましたが、(韓国系学校も含め)他の外国人学校には補助金が下りるのに、国交が正常でないという理由だけで、朝鮮人の学校だけは補助金が下りず、親御さん生徒さんが苦労して遠く迄通われて、高い授業料も負担しないといけないのは明らかに差別的と感じます。
「国民の理解」についても、北朝鮮の報道に頼る事なく、在日朝鮮人の問題は特別永住許可証をもっている、日本における一市民として考えて頂き、事実を報道した上で国民に問いかけて頂き、「理解されるかどうか」一方的に決めるのではなく、そこから議論をして頂くのが妥当かと考えます。
文科省の方々が一度機会を見つけて実際に日本の高校に相当するかどうかをみて頂き、学校関係者、親御さんなどに話しを聞かれる事を希望します。報道の限りでは北朝鮮の右寄りの教育をしているように受け取られかねませんが、(朝鮮語を話せる事以外は)実際朝鮮高校の生徒と話しても普通の日本にどこにでもいる学生さん達だし、教室の中も映像写真等で見ましたが、日本の学校と代わりはなかったです。
ご検討法律改正よろしくお願いします。



永野 潤
 いわゆる「高校無償化」からの朝鮮学校の排除を目的とした本省令案に反対します。省令案を撤回し、朝鮮学校に対して「高校無償化」をただちに適用すべき(就学支援金を、凍結されている卒業生への分も含めてただちに支給すべき)と考えます。
 ただし、朝鮮学校に「高校無償化」が適用されるべきなのは、朝鮮学校が日本社会にとって「無害な」存在である【から】、とか「むしろ有益な存在である」【から】というような理由では決してありません。それがなされていないことが、人権侵害であり、差別である【から】、という唯一の理由にもとづいてです。
 朝鮮学校に「高校無償化」を適用しないのは、朝鮮学校の生徒たちの教育を受ける権利の侵害であり、民族教育を受ける権利の侵害です(日本も批准している「こどもの権利条約」第30条には「種族的、宗教的若しくは言語的少数民族又は原住民である者が存在する国において、当該少数民族に属し又は原住民である児童は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を信仰しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない。」とあります)。
 人権侵害はやめるべきだし、その理由はそれが人権侵害だからです。それ以上の理由は存在しないし、するべきではありません。その意味で、朝鮮学校への「無償化」適用を行うかどうか、つまり「人権侵害の中止を行うかどうか」を、「判断」したり「議論する」という余地はそもそもなく、ましてやそんな「判断」や「議論」を当の人権侵害の加害者が行うなど、ありえないことでしょう。ところが現在、そのような議論が実際になされてしまっています。そこでは、「反対派」が、朝鮮学校が日本社会にとって「有害」であると告発し、「賛成派」は、逆にそれが「無害」であるとか「有益」であるとか弁護する、といった状況が生まれています。まるで朝鮮学校やその生徒たちが被告席に座らされているかのようです。しかし、被告席に座るべきものがいるとすれば、それは、朝鮮学校の「無償化」からの排除という人権侵害を行っている日本政府ではないでしょうか?
 朝鮮学校は、日本による朝鮮の植民地化の結果日本に渡らざるをえなかった朝鮮人たちが、否定された自らの言語と文化をとりもどすために作り上げたものです。日本政府は、その朝鮮学校をつぶそうとし、またその後も一条校として認可せず、助成金や税の免除において差別的な扱いを行ってきました。「高校無償化」からの排除を含めて、こうした日本政府による朝鮮学校への「加害」は、その意味で、植民地主義の暴力の継続であると言えます。
 したがって、朝鮮学校に「無償化」を適用するか否かを「判断」する資格は、日本政府にはありません。それについての「議論」も成立しえません。日本政府ができること、またするべきこととは、ただ一つ、今行われている朝鮮学校への「加害」「攻撃」を直ちに「やめる」ことです。そして、謝罪と賠償を行うことです。すべてはそれからです。



仲野 誠
 朝鮮高級学校の生徒を就学支援金支給の対象から除外しようとする今回の省令案に反対します。
 その政策が行政手続き論、人権論および社会正義などの観点から極めて大きな問題を含んでいることは既に多くの人たちが指摘しているとおりであり、論理的に破綻していると考えます。そして今回の省令案は朝鮮学校の生徒たちをこの社会から排除するばかりでなく、長期的にはそもそも日本社会のためにならないものであると考えます。
 ここでは、行政手続き上および人権侵害上以外の観点からコメントを述べさせていただきます。それは、この社会を支えていくこれからの若い人たちを育んでいくためには朝鮮学校が内包する豊かな教育力をむしろ日本の教育が学んでいく必要性があるという観点です。それは朝鮮学校に対して「恩恵的」措置を講じるべきだという主張ではなく、むしろ朝鮮学校の教育力を日本社会のひとつの「財産」として位置づけることによって日本社会の将来をつくる活力を豊かにすることができるということです。これは数量的計測が比較的難しいメリットであるために議論しづらい側面があるかもしれませんが、看過できないことであると考えます。
 たとえば、朝鮮学校を訪れた多くの日本人学生は、朝鮮学校の校内でみられる豊かな社会関係資本を目の当たりにし、自分の学校生活と比べて「うらやましい」と口にします。また朝鮮学校の美術作品に出会った多くの日本人学生たちがその表現の力にしばしば衝撃を受けるのを私は目の当たりにしてきました。高校時代に美術部に所属していたある大学生は次のように言いました。「朝鮮学校の絵を観て、いかに自分が狭い環境で面白くない絵を描いていたのかがわかりました。私が描いていたのは評価されるための絵で、それは美術ではなかったことに気づきました。子どもたちの作品を観ていると次にどんな絵がくるのかわからないドキドキ感があり、同時に羨ましさも感じました。まるで作者と会話をしたかのような充足感が得られ、自分も新しい視点で絵を描きたいと思えました」。
 別の大学生は次のように語りました。「作品を観て私は頭の中をパンチされたような感覚を抱きました。その理由は作品の圧倒的な力強さです。評価されるための絵を描いているのではなく表現したいものを表現する、というすごくシンプルで難しいことをやってのけている彼らの作品は自信に満ちていました。とても堂々と描かれているため、私は作品を“みている”というよりも、“みせつけられている”ような感覚に陥りました。私は彼らの自信に満ちた絵に圧倒され、豊かな発想力に頭の中を揺さぶられて疲れてしまったのです。それと同時にこれだけのものを表現できる彼らを羨ましく思わずにはいられませんでした。“他人の目は気にしなくてもいいんだ”と勇気づけられました」。
 様々な近代的制度が機能不全に陥り、この社会全体が未来を切り開くことを手探りで模索している現状において、戦後試行錯誤しながら独自の教育を構築し、不確実性を生きる知恵や技を蓄積してきた朝鮮学校の教育から日本社会が得られるヒントはたくさんあると考えます。このような状況下、まさに私たちの「共生」の思想(あるいは排除の思想)が根源的に問われています。そこで問われているのは、朝鮮学校の生徒たちをもこの社会を担っていく成員として位置づけて、この社会の未来を共に構築することができるかどうかという日本人側の思想です。
 朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の国家をめぐる課題と朝鮮学校の子どもたちを結び付けて考えようとする今回の省令案は理不尽であることは明らかです。それは朝鮮学校の生徒たちをこの社会から排除するばかりでなく、この社会自体の将来の可能性をも縮減する/奪っていくものに他なりません。他者に配慮ある社会をつくることは、「マイノリティ」のみならず、この社会のすべての成員の新たな可能性を生み出す根幹になるはずです。
 以上の理由から、朝鮮高級学校の生徒を就学支援金支給の対象から除外することは、日本社会にとっても不適切であり、速やかに支援金を支給することを求めます。



三宅 晶子
朝鮮学校を高校無償化制度から排除することに反対します。
2010年3月、国連人種差別撤廃委員会は、人種差別撤廃条約の実施状況をまとめた日本政府報告(第3回〜6回)への総括所見で、朝鮮学校を高校無償化の対象から除外する動きについて懸念を表明したうえで、日本国籍をもたない子どもたちの教育の機会に関する法規定に差別がないようにすること、義務教育において子どもたちがいかなる妨害も受けることがないようにすること、外国人のための学校制度などについて調査を実施すること、自分たちの言葉で授業を受けられるような機会の提供を検討することを勧告し、さらには、ユネスコ教育差別禁止条約への加入の検討を求めました。
また、続く6月の子どもの権利委員会の総括所見でも、「外国人学校への補助金を増額し、かつ大学入試へのアクセスにおいて差別が行なわれないことを確保するよう奨励する。締約国は、ユネスコ・教育差別禁止条約の批准を検討するよう奨励される」との勧告がなされています。しかし今、政府は、これらの勧告が求めたのとは真逆の方向に決定的に動こうとしています。
この排除には、主に3つの問題点があると思います。まず第1に、子どもたちの教育を受ける権利の侵害という観点です。母語を学び、ルーツとなる国の文化・歴史を学ぶ権利を子どもたちは有しています。今回のやり方は、単に学習権の侵害というだけでなく、教育を成り立たせる基盤である<人間の尊厳>そのものを深く傷つけることが深く憂慮されます。二つ目は、日本人に対する影響という観点です。この差別がまさに国によって公的に、それも教育の場で行われたことは、反教育ともいうべき行為となってしまい、日本人やそれ以外の子どもたち、そして国民に対して、差別してもいいと教えるプロパガンダを実行しているに等しいのではないでしょうか。現実に、国が行った差別を準用する形で、重要な自治体が、これまで続けてきた補助金を停止し、学校の存続そのものを危機に陥らせています。ここには、あらゆる子どもに自民族の言語、歴史、文化を学ぶ権利があることへの根本的な無理解と、ましてや、かつて植民地支配の中で姓名、言語、文化を奪い、戦後も国籍選択権を奪った当事国として、より深い責任を負うべきことを認識しようとしない自閉的な国民意識と、拉致問題・砲撃問題で刺激された敵対的国民感情の発動が見られます。しかし、政府は、だからこそ、感情的な差別の助長ではなく、国際的な人権意識、子どもの権利条約のレベルで子どもの権利を擁護し、東アジアにおいて記憶と歴史を共有し合うことによって真に戦争を終わらせ、21世紀になっても果たされていない講和を成し遂げ、積み残されてきた責任を果たすこと、真の和解を目指すべきでしょう。この、歴史的観点が、第3の観点です。



高橋 哲哉
政府・文科省は、朝鮮学校への無償化適用については政治的判断ではなく、教育的見地から判断する旨、くり返し表明してきました。今回の適用除外の決定は、その言に反し、政治的理由を持って朝鮮学校生徒を無償化の適用から除外するもので、そもそも高校無償化法の規定に反するものです。この決定は、国連人種差別撤廃委員会からも懸念が表明されているとおり、日本政府が教育において民族差別的な政策を公然と実施することになり、朝鮮学校に学ぶ生徒たちの基本的人権を侵害するものです。日本政府が批准している児童の権利条約にも違反するこの決定を、ただちに撤回し、朝鮮学校生徒への無償化適用を実施するように強く求めます。